5月24日コンサートします

ブランクを経て復帰したピアノ弾きが
固定観念を破りながらやりたいことと向き合う過程を共有します

自信なんて持てなくていい。でも
「自信がない」を隠れ蓑にしても良いことないよね

こんにちは、ピアニストブロガーのカワグチです!

コンサートを開催できるようになったとなると
ようやく自信がついたのかな?と思われがちでしょうが、
実は今でも自信なんてついていないし、自己肯定感も変わっていません。

弾ける曲が増えても自信はついていない

いやもっと言うと、
いざやってみると自分よりも能力値の高い人がイヤでもおすすめ表示されてきたり
傍観しているだけだと簡単そうに見えていたことがそうでもなかったりと「上」が見えてきたため
むしろ、実は今の方が自己評価は低いくらいかもしれません。

しかも、ピアノって曲が弾けるようになったとしても、
細かい指回しがうまくいかないとか、テンポが上がらないとか
慣れたら慣れたで走りすぎてしまう、とか変な癖がついてしまったり…
ある意味「完成」がないですよね。

なので、弾ける曲が増えれば増えるほど「自分まだまだだな」感が蓄積されていっている気すらします。
ピアノを弾く方であれば共感していただける方もいらっしゃるのではないでしょうか。

自信は行動量に比例して増えるものではない

自信って筋肉のように増やそうと思って増えるものではなくて
むしろ、場数に比例して削られていくことの方が多いと思っています。

多分、世間知らずなくらいな時期が一番自信があって、
わたしも何度か転職経験がありますが、業界未経験の頃が一番強気で自信があったし、
ただただ好きにピアノを弾いていた幼少期の頃が一番無敵に自信があったと思います。

そこから同級生に嫌味を言われたり
コンクールであっさり予選落ちしたり
本選通ったと思ったら審査でボロクソな講評もらったり
(外国人の審査員に”absurd”って書かれてて、コレどういう意味だろうね〜って帰って調べたら「バカバカしい、めちゃくちゃだ」って意味で絶句した)

(そんなコンクールで弾いた曲も、今回のコンサートで演奏します(^O^))

自分が弾けない曲を高速でスラスラ弾いている人を目の当たりにしたり
「うるさい」って苦情がきてしまったり
著名なピアニストの名前を挙げて比較されたり
前の人で温まっていたストリートピアノが自分の番で皆帰ってしまったり
ブログを紹介したら引いた感じでスルーされるとか

自分の音楽なんて必要ないんだな、求められてないどころか
ときに迷惑でしかない現実を突きつけられる度に、
相手に悪気がなくても削られていくこともあるものです。
(誹謗中傷を受けた!と言いたいのではなく、
間接的に自信を削がれたり絶望する体験など引っくるめた例えです)

なのでむしろ、井の中で自己満足でやっていた頃よりも
数をこなして色んな人に届けるほど、接触する人が多ければ多いほど
批判やもっとすごい人との接触も増えますし
根性論的に「行動した分だけ自信がつく」ものではない、と思っています。

肯定と否定は単純計算で相殺されるものじゃない

もちろんその傍では、演奏を喜んで聴いてくれたり評価してくださる方もたくさんいてくださったからこそ、こうして音楽を続ける原動力にさせていただいて今に至りますが、
上手く言えないのですが、

  • 肯定された=+1ポイント
  • 否定された=−1ポイント

と単純計算できるものでもないですよね。

自信がないから身が引き締まる

一方で、そういういろんな方面から自信を削られるような経験を経るからこそ
(こんなもんで良いと思ってたけど)このままじゃダメだ、という危機感を持てたり
今まで考えたことがなかった視点をもらえたり
もっと練習して演奏を磨かなきゃ、という自分を律する気持ちにもつながります。

その場ではチクっと傷つくかもしれないし、
「こんなに頑張ったのに否定しかされなかった」って思いたくなることもあると思うのですが
色んな種類の人と関わることはマイナスだけではなくて。
良いことしか言われないのも、井の中の蛙になってしまうだけですからね。

嬉しくはないけど、薬になることもたまにはある、くらいでしょうか。
とはいえ、本当にやる気ごと削がれることもあるので
「すべての経験が学びになる」みたいに綺麗には思いませぬが。

「自信をつけること」は本来の目的ではない

というか、そもそも自信って何なんでしょうね。
他人より秀でているから優越感に浸れる?

音楽に限らずあらゆることでですが、
自信を持てている人のほうがうまくいきやすいことが多いとはいえ、
必ずしも自信に比例して実力や技術がすごいわけでは決してないはず。

だとしたら、自信って本当に増やすことだけが正解なのでしょうかね。

挑戦するのは
自分の自信の養分にするためではない

そして、音楽をやるとか、音楽に限らず何かに挑戦するのって
ほめてもらって自分に自信をつけるためでも、自己肯定感を肥大化させるためにやるものでもないですよね。

だとしたら文字通りそれは自己満足でしかないはずで
他人に届ける以上は、受け取る他人にとってもなにかメリットがあってはじめて受け入れてもらえるものです。

万人に役に立たないものなら、価値を感じてもらえる人だけに届けたらいい。

「自信がない」は
やらない言い訳にはならない

だから、「自信がない」というのを言い訳に隠れ蓑にしてはいけないのかなって。

わたしも練習量が足りないから、自信がないからピアノ自体を弾かない、と長らく自分を守ってきましたが
得られることって「自分が傷つかないこと」くらいしかないのですよね。

「自分には無理だ」すごい人を見て挫折しそうになる、心が折れそうなときの処方箋

大切に護る=閉じ込めることではない

ぶつけて傷まないように大切に大切に守り抜いた桃も、
ずっと冷蔵庫にしまったままではいずれ腐ります。

だから、持っているもの、人に与えられるはずのものを
見てみぬふりして使わないでしまっておく、というのは
大切に護っているようにみえて、終身刑を課しているだけかもしれない。

その習熟度がプロや他人から見て未熟だったとしても粗があったとしても
天から与えてもらったもの(才能だけじゃなくてやりたいという熱意も含め)に対する冒涜なんじゃないかなと思ったりもします。

抑圧した分だけ他人が妬ましくなる

自分を見せずに安全な場所にずっといても、
減るものはない代わりに得られるものも何もない。

傷つかないし笑われないし何も失わない。
安全な場所で生きられる。

でも、楽しそうに生きている人が目に入るうちに
「自分だって本気出せばあのくらいできるはずなのに」って悔しくなって
今何もできていない自分が無価値だと相対比較さているみたいな虚しさに襲われて
やりたいことを生き生きとやれている人が憎くなって叩きたくなるのですよね。

許されるから人を許せる。夢や可能性、やりたいことを潰すのは「普通の人」かもしれない。

(他人を誹謗中傷することはもちろんしませんが)
わたしも音楽をやりたくても封印していた時期が10年以上ありましたし、
今こうして音楽をしていても、後悔していることや挫折体験は他にたくさんありますので、
痛いほどわかりますし、正直見たくない著名人もいます。
(その人に罪はないですが、自分の心の平穏のためにミュートしまくっている(^O^))

なので、もしかすると自分が無責任にでしゃばることが
誰かにとっては刃になってしまうんじゃないかということも肝に銘じていますが
かと言って、そういう人たちに気を遣ってご機嫌をとりにいくのはわたしの役目ではないと境界線を引いています。

だから、自信を持てたらやる、じゃなくていいし
やれている人だって自信満々な人ばかりではなくて
堂々と振る舞って見えるけど、実は足が震えている人だって実は多いんじゃないかなと思いますし
それでもなお矢面に立てる強さに尊敬の気持ちを抱けるものです。

やろうと思えるのは
自信を超える動機があってこそ

とはいえ、自信がないのを無理やり振り切ってやる!とはなかなかならないはずでしょう。

自信がないのにそれでも何かを始めたり
人に「やっています」って表に出せるためには
「自信のなさ」を超えるような動機があってこそ。

それは「楽しいからみんなに共有したい!」かもしれないし、
もしかすると「絶対こうはなりたくない」反動かもしれない。

後者も強烈なエネルギーにはなりますが、
自信のなさとかを忘れてしまうくらい楽しそうにしている人には敵わないというか、
結局、楽しそうにしている人のところに人は集まってくるのかな、と思ったりもします(^^)/

はみ出ていても白い目で見られるし、
抑圧して平均化していても何か秀でた能力を求めてこられる。

どっちにしても生きにくいこの世の中なんだからもう、
正しく生きるよりも楽しく生きられたらいいですよね!

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