最近、新しいことをしようという気持ちが
以前より少なくなってしまいまして(´・_・`)
どうしてだろう、頭ではやりたいのに。
歳のせいかなぁ…
表現ができない原因は
「恐れ」
と思った時に、
よくよーく自分の気持ちを観察してみると出てきたのは、
やりたくないとか面倒くささとかネタ不足ではなく
- 恥ずかしい
- 怖い
- もういい歳なのにイタイと思われるんじゃないか
- どうせちょっとやそっと頑張ったところで
しょぼいことしかできないだろう - 怒られるんじゃないか、
迷惑がられるんじゃないか
という、怖さや抵抗感、恥の自意識でした。
どの年代でも「この歳で」は消えない
余談ですが、20代の時に常々感じていたのは、
「自分なんてまだまだ」「こんな実績のない若造が生意気だと思われるんじゃないか」と
見えない説教おじさん(笑)を恐れて萎縮していたのに
30歳を超えると、それはそれで若くてエネルギッシュなインフルエンサーを見ては
「今更いい歳して…」という気後れに変わる切なさ。
結局、社会に最適な年齢を求めにいくと、そんなものはなく
歳を取れば許されるとかやりやすくなる、というものでもなく
見る人にとっては若すぎるし、別の人にとっては手遅れすぎるわけで
何かしらの後ろめたさは感じざるを得ないというか
まぁ、気にしていたらキリがないということですよねっ。
挑戦できない人は、どこかで傷ついている
気がつくと、日常の中で萎縮して生活していて
そんな、遠慮や萎縮がデフォになってしまっておりまして。
とは言っても、わたしの場合
演奏表現や音楽活動を誰かに直接否定されたわけではないのですよ。
むしろ、興味を持ってくださったり、動画を上げれば反響をいただけていることにに恐縮しているくらいなのですが…(ありがとうございます…!!)
遠慮や萎縮してしまっている(でも、本当はやりたい)人って
本当に遠慮したいとか、自分なんて…と思っている人は少なくて
(だとしたら、やりたいとすら思わないはず)
外野から「なにか言われる」ことを恐れている人なんじゃないかな、と思うのです。

「なんか言われないように」の誤作動
じゃあ、なんでこんなに
尻込みした気持ちになってしまっているんだろう、と考えたとき
おそらく、音楽とは直接関係ない日常で、じわりじわりと、
自分でも自覚がないほどごくごく極小の針で何度もチクチク刺されるように
自尊感情が削られていたのかもしれないな、と思ったりしているのです。
「それおかしくない?」で削られていく自尊心
例えば、わたしはけっこう意識的に
TPOが許す時はできるだけ、自分の好きな格好をするようにしています。
(出かけてから「もっとちゃんと着飾ってこればよかった」って後悔するのイヤですしね。
実際に後悔して街でアクセサリーを衝動買いしてしまうこともしばしば)
そうすると、
「すごい色だねw」とか「ずいぶんヒール高い靴で素敵すね(イヤミ)」とか
(暑がりなので薄着がち)「寒くないの?」とか
いちいち、いらない感想言ってくる人がけっこういるわけですよ。
7~9月以外は半袖サンダル着たらダメなの?(寒いどころか暑いw)
もっと露出している人いっぱいいるでしょ!とか、
じゃあ、この人たちってわたしにどんな格好を期待しているの?
イスラム教みたいに、少しも肌を見せないようにしていればいいわけ?
ユニクロのマネキンみたいな全身黒・グレー・ベージュの服でいたら満足するの?
と、あとからジワジワイラついてくるのですがw
なんの関係もない他人を干渉し合う
自主警察が多いよね
そう言ってくるのって、決まって
一緒に歩いている連れでもない、ただ通りすがりに立ち話した人とか
別に私がその場で何を着ていようが、迷惑を被っていないような人だったりするのです。
(一緒に行動を共にする相手に「一緒に歩くの恥ずかしいからやめてw」とか、「相変わらず派手だね〜w」とか言われるなら全然わかるのですけれどね。笑)
自分でいいと思って選んで着ているんだから別によくない?
仕事場じゃあるまいし、あなたに迷惑かけてないよね?
とは思うのですが、
その都度いちいち反論しても、また別の「警察」が湧いて出てくるでしょうし
自分がそんな格好をする勇気がないから、うらやましくて言っているだけの人もいるでしょうから
くだらないのでいちいち付き合いませぬが。

あるいは、
ワークライフバランスの模索や、自分の活動を優先するため平日日中働くことをやめていた時期は
平日日中に、買い物や用事など外に出ていたら
(仕事している時間帯なのになんでいるの??)みたいな怪訝な反応をよくされていましたよ。
「世間の目」「社会的圧力」の正体は
一人一人の凝り固まった先入観
つまり、
「世間の目」とか「社会からの無言の圧」って、
親から説教されるだとか、規則で罰せられるとか、そんな大々的なものではなく
「このくらいの年代の女性はこういう格好をしているべき」
「女性はみんな寒がりだ」
「働く=平日日中8時間、土日休み」とか
そして、そこから外れている=変な人・何か問題がある人、といった
なんか多分、そういう、無言の先入観や固定概念(と、そこから外れている人に悪気なく発する軽口や態度や表情)がジワジワと形成してゆくもので

正体不明の生きづらさというのは、こういう、言葉にするほどでもないような
ほんの些細な出来事の積み重ねなのではなんじゃないかな。
気にしないことが難しいほど多すぎる
気にしなきゃいいとはよく言いますが
無視するにはあまりにもそういう場面が多すぎて、
しかも意外と、むしろ東京に来てからの方が、同年代の人のほうが
そういう「普通」の押し付けをなんの悪気もなく、息するように言ってきたりすることもあったりで
閉鎖的な田舎だからとか、価値観の古い年配の方だからとか、全然そういうわけでもない気がしています。
(むしろ自分より上の年代の方は褒めてくださる方も多い)
たった一人に言われたくらいなら、「別にいいじゃん」で流せるにしても
あまりにも再現性がありすぎると、
自分そんなにおかしいのかな、直さなきゃないのかな、とか
また言われるのイヤだから人目につかないようにしよう、とか思って萎縮してしまっても無理もないですよね。
たくさんの人に言われたイコール、迷惑をかけているわけでもないのに
こういう、ゆるやかな集団いじめのような現象が
没個性・出る杭は打たれる今の生きづらい社会の正体なんじゃないかな、と思ったりもします。
世間に対する不信感・猜疑心が
芸術をアウトプットすることへの怖さにつながる
服装の話はほんの一例にすぎないですが
そういう、本当にほんとーーーに微弱なストレスが積もりに積もって
自分主体で何かやってみたい、という情熱がふと湧き上がった時にも
「また誰かになんか言われるんだろうなぁ」という、鬱々とした予期不安的なものが
反射的に発動するのではないかということです。

まぁ、服なら着替えればいいだけですし
ただ好きなだけなので、そんなに気にしていませぬが
これが、人生かけてやっていきたい音楽で、いちいちこんな軽口叩かれてたらキツイなぁと。
たかが服装や見た目すら受容されない社会なら
まして芸術なんて受け入れてもらえるはずがないよね、と思ってしまっても仕方ないし
これはわたし個人のこじらせ感情というよりは、もうちょっと大きな社会的な損失な気がしています。
染みついた自己否定は簡単に消えない
一時的な感情は意識すれば切り替えることができるかもしれませんが
他人から繰り返し染みつけられた自尊感情やセルフイメージって、自分で努めて鼓舞したくらいでは簡単には取り去れないもので
著名な方や表面上は気丈に振る舞っている人であっても、見ず知らずの批判に心を痛めたり
生きることを諦めてしまう方が後を絶たないことが、それを証明しているのではないかなと。
一定期間、鎖で繋がれていたゾウは、
その鎖から解放されてもなお、鎖でつながれていた範囲から出ることをしなかった
という実験のお話を聞いたことがあるのですが
そういう、ここをはみ出ると痛い思いをするという「見えない檻」を
わたしたちは知らず知らずのうちに作ってしまっているのでしょうね。
まとめ:
傷ついている原因は日常にあるとしたら
適切な距離感や場所選びを
きっと、他のことでもたくさんありますよね、こんな場面って。
気にしないようにするにはあまりにも、その数が多すぎますよね、と。
規律のある社会生活を送るうえでは必要なことではあるけれど
芸術活動を妨げないという視点では、足枷になりかねない。
傷つくのを未然に防ぐためには
属する場所や付き合う人選びを
そんなことを思うと、芸術家にとっては
「清く正し”すぎる”社会」とか、
「みんなと同じ=幸せ」をよしとする集団からは
適切な距離を置いておくほうが最善なのかなぁなんて考えが行ったり来たりするのです。

芸術家の環境づくりというのは、
物理的に音が出せるとか聴いてくれる人がいるとか、もっとそれ以前に、
芸術に直接関係のない、日常の自分の身の置き所から意識的に創造していくことから始まるんじゃないか。
多様性が尊重されて久しいですが
どこでもそれが通用すると考えるのは、それはそれで傲慢すぎるような気もしていて
外れている自覚があるならあるなりに、自分の属する場所や付き合う人を選ぶことが
自分にとっても相手にとっても思いやりになるのかな。
と、常々思うのです。
ということで、
なかなか表現・アウトプットする勇気が出ないという方は
無理やり自分を奮い立たせる前に、
心の奥底に、なにか傷ついた経験が足枷になっていないか
怖さや萎縮を植え付けられたきっかけかがないかを
丁寧に振り返ってみてはいかがでしょうか。
時々心のセルフメンテナンスをしよう
というのは、
こちらの本の受け売りでもありまして(宣伝ではないのだけどね)
わたしも今でも、無意識のうちについてしまった鎧を氷解すべく
時々こうして客観的に立ち返ったりしています。
この記事をシェアする
記事のシェア・ご紹介はご自由にどうぞ◎