ブランクを経て復帰したピアノ弾きが
固定観念を破りながらやりたいことと向き合う過程を共有します

許されるから人を許せる。
夢や可能性、やりたいことを潰すのは「普通の人」かもしれない。

こんにちは、ピアニストブロガーのカワグチです!

ネット通販で上着を買ったら
届いた頃には暖かくなり始めたというニアミス/(^o^)\
ま、来年着ますわ。

人に優しくなれたとき起きていたこと

既にだいぶ過去のとある時期の話ですが、
他人のことが許せないというか、器が狭いというか
ほんの些細なことにイラついてしまったり、他人の挙動に怯えてしまう時期がありました。
そして、そういう心の狭い自分に対して、さらに許せなくて責めてしまうのね。

今は気持ちの浮き沈みこそありますが
過去に比べるといくらか人に対しておおらかになったのかなぁ、という気がしています(。・O・。)

そういう時期を振り返ってみると、他人を許せない以前に
こうでなきゃ!絶対これをしなきゃ!と、自分を律する気持ちが過剰に働きすぎてしまっていたような気がしていまして。
今日はそんなことを考えて記事を書いてみます。

不倫された側の味方をする真意

前提として、わたしは結婚だの不倫だの離婚だの
他人様の情事に興味はありませぬが(テレビ捨てた)
不倫のニュースで芸能人やインフルエンサーは炎上するたびに
どうしてみんないつもこぞって「奥さんがかわいそうだ!」とか
全力で知りもしない奥さんのことを同情して擁護するんだろう、と不思議でして。
(旦那さんや子供の場合もありますが)

「アイドルは人格者であるべき」世間の呪縛と、正しさと芸術の矛盾を考える。

というのも、赤の他人の恋愛事情とか
別に、どうでもよくない?と思うのですよねぇ。。

その人と仲のいい友達だとか、ファンだったとかなら
全力で擁護したり叱責したくなるのはわかるのですが、
顔も名前も、その人がどんな人なのかすら知らないのに
(もしかしたら、サレた側にも落ち度があるかもしれないし)
日本人の正義感ってすごいなぁと。

おそらくですが、反射的にすぐそういうのに乗っかりたがる人たちの真意って
「知らない人」を本当に助けたいとか、守りたい優しさではなくて
道を外れずまじめに生きている自分自身を正当化したいとか、
好き放題して妬ましい人を、引きずり降ろしてスッキリしたいとか
自分より不幸そうな人に同情して、相対的に幸せだと思いたいとか
そんなところなのではないでしょうか。

正論ほど深く傷付く

「正論」というのがけっこう厄介で
自分では相手を傷つけている、攻撃しているという自覚がなくて
なんなら、間違いを正してあげている=親切と思っている人すらいるでしょう。

だけど、正論ほど傷つくものもなくて
自分がおかしい、間違っていると裁かれたら、それ以上の逃げ場がないわけで
そんな正論攻撃を繰り返しされたら、自分がこの世に存在している価値自体を否定したくなってしまっても、なんら不思議ではない。

自己表現が怖い人は傷付いている。芸術を妨げる、日常の「おかしい・外れている」という目線

価値観や正義感、同調を
強制しすぎる日本人

不倫の話は一例として挙げただけですが
インフルエンサーや芸能人だけじゃなくて、
「出る杭は打たれる」場面って、日常でもけっこうあるのではないでしょうか。

日本は無宗教な人が多いはずで、「宗教」と言うだけで
「偏った考えの危ないカルト信者」みたいな極端な偏見を持つくらいなのに
その割に、他人の行動をすぐジャッジしたがるし、普通の枠にはめたがる。

その圧力こそが宗教じみているレベルというか、
まるで「日本人教」「普通教」ともいうべく
同調圧力という名の強烈な「信仰」が根深い気がしています。

「アイドルは人格者であるべき」世間の呪縛と、正しさと芸術の矛盾を考える。

おそらく、そういうわたしも無意識に凝り固まった価値観があるはずですが
染みついた観念って、なかなか変えるのが大変と言うか
そういう固定観念が自分にあるというのに気づくこと自体が難しいですよねぇ。

他人を許せず叩くのは
意外と「普通の人」

ところで、
SNSや掲示板などで、うまくいっている人や目立っている人をこぞって叩いている「警察」たちって
気性の荒い人やヤンキーのような、いわゆる「不良」よりも
実は意外と、普通の生活をしているサラリーマンだったり、専業主婦だったりと
不良とは真逆で、他人や組織や家庭や社会に従順で、慎ましい生活を送っている
いわゆる「普通の人」が多いらしいですよね。

あとは、小中学生の軽い気持ちのイタズラとか。
(ヤンキーは直接戦えるから、そんなネチネチしたやり方しないのかもしれませぬね)

意外ですが、
やりたいことをやっている人よりも、
やりたいことを我慢したり、見ないふりをしてきた人の方が傲慢だったりするのかな、と思ったりします。

逆に、考えてみると、
人目を気にせず自由に振る舞っている人や常識はずれな人って
人にあれこれケチをつけたりする人って少ない気もしますよね。

自分も我慢しているのだから
あなたも従いなさいという「警察」

いわゆる真面目な彼ら彼女らは、世間体や外面がなにより大切だから
それを守っていない人に対して、正論やルールを武器に変えて攻撃をする
つまり、「責める」形で正当性のある攻撃をしている、というか
はみ出た人が容認されてしまったら、あれこれ我慢して真面目に生きている自分達が報われないから、という気持ちもあるのかもしれませんね。(元まじめ子の仮説)
「あなただけ好き勝手するのは許さない!」という。

自分がやりたいことをやれていないから、
それを自由にやっている人のことを許せなくなる。
だから、何かと正当性のある理由をつけて責める。

もちろん嫌がらせはしないにしても、わたし自身もやっぱり人間なので
何もかもうまくいっていそうな人や
自分がうまくいっていないことを簡単に成し遂げている人、
ドヤ顔でピアノをサラサラ弾くインフルエンサーを
ムカつくとか、妬ましく思う気持ちはわからんでもありませんw

最近はあまり聞かなくなった気がしますが
「自分たちの頃はもっと大変だったんだから…」とかもそうですし、
自分が見返りが欲しくてやっているだけなのに
「自分はこんなにやってあげているのに○○してくれない!」と恩着せがましい人も似たような感じでしょうか。

いずれにしても、自分が選んでやっていることなのに
他人に恩やら罪を勝手に着せて、悪者に仕立て上げ被害者ぶるのは、お互いに生きづらくもなりますし
そんな人と一緒に過ごしたくはないですよね。。

他人を許せない人が見るべきは
蓋をしている「自分の心」

言い換えると、
他人のことが許せない、いつも裁きたがる人というのは
自分の中に何か抑えているものや見ないふりをしてきたこと、
本当はやりたかったけれども勇気がなかった事が心の中にあるのかもしれません。

「自分には無理だ」すごい人を見て挫折しそうになる、心が折れそうなときの処方箋

本当はやりたかったけど諦めた、
どうせ失敗するし恥をかくからと見ないフリをした、
今やっていることやいる場所が、本当は好きじゃなくて全然やりたくない。

嫉妬心は身近だと思っている人に対して起こるものというように、
見ないフリをしている自分への期待すらなければ、
それこそ、他人を妬んだり裁いたりする気持ちすら沸かないはずですからね。

人を許せない時こそ
自分の好きに生きてみよう

他人のあら捜しをする前に
そういう、自分の本心と向き合って、
損をする覚悟や、それこそ他人から後ろ指さされる覚悟をもってやってみると
人のことが許せない気持ちというのが自然と溶けていくものです。

完璧でも普通でもないあなたを
許してくれる人はいる

というのも、
自分の本心に従って好きに生きていると、いずれ
「こんなことして大丈夫だろうか?」ということが出てきたり
(言うまでもないですが、誰かを傷つけることはやめましょうね〜)
過程で失敗したり、人並みにできなくて恥をかいたりすることが出てきますが、
そんな時に、あなたを許して見守ってくれる人が現れるから。

むしろ、はみ出て人間臭いほうが、
人から受け入れて愛してもらいやすいものだったりもします◎

見返りや損得勘定を度外視して何かに本気になっていると、
不思議と相手から心を開いてもらえたり
協力を申し出てもらえたり、似ている人が現れたり、そんなこともあるものです。

ピアノ発信を始めて1年。本気でピアノと向き合って変わったのは、人との関わり方でした。

わたし自身もこんなことを、忘れたり思い出したりの繰り返しで
ストリートピアノを弾く時も、笑われたり「うるせー!」って怒号が飛んできたらどうしよう…と
未だに怖い日もたくさんあります。

だけど、順番を譲ってくれたり、率先して拍手してくれたり
素敵でした!って声をかけてくれたり(演奏者に声を掛けるのも、勇気が要りますよね)
そんな、ピアノを通して知らない人の優しさに触れるたびに
ピアノをやっていてよかったなぁ、と救われています。

個性は踏み絵になる

100人中100人に許されるとはいかなくても、
受け入れてくれない人や、奇異な目で見てくる人がいたとしたら
その人とは、あなたが我慢し抑圧し続けない限り合わない、ということですから
ある意味で、付き合うべき人を選り分ける踏み絵のような役割にもなってくれるのではないかな。

言ってくる人は、何をしても言ってくるし、そういう人は必ず一定数います。
あなたを肯定してくれる人ではなくて、わざわざ否定してくる人に基準を合わせて顔色を窺っても、あなたの人生に責任を取ってはくれませんから
自分らしく生きたいのであれば、よほど世渡りがうまい人でない限り
いずれはそういう人とは距離を置いたほうが身のためでしょう。

言い換えると、相手全員にポジティブなリアクションを強制するのも、それはそれでこちらのエゴなので
良く思われなかったとしても、それは一つの相手の意思として尊重できたらいいですよね。
(とはいってもやっぱり悲しいので、素直に受け入れるのはなかなか難しいのですけれどねぇ)

お客さんの顔色に左右されない演奏者の心得。~喜んでもらうのと、笑顔を強制させるのは違うよ!~

まとめ:
完璧じゃなくても許されるし
許されるから優しくなれる。

人から許されると、自分を許せて
他人のことも受け入れられるようになる。
そんな繰り返しで器ってできるんじゃないかな、と
過去の自分のことを振り返っても思うのです。

無理に許せない人や受け入れられない人をゼロにしようとする必要はありませんが
(許せない人がいる自分を許すことも大事ですからねっ)
他人の寛容さに気づけると、
世界は意外と優しいんだな、自分はなんて頑なになっていたんだろうって
恥ずかしくなってきたりもするもので。

最近はなんでもかんでも心の病気にしたがる風潮もありますが
人のことが信じられない、些細なことも許せないという人は
自分(が他人から許され受け入れられること)を信じていない、ということなのかもしれませんね。

わたしも日々、そんな思い込みを塗り替える連続ですが
経験ほど思い込みを変えてくれるものはありません(^^)/
どなたかの参考や励みになれば嬉しいです!

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