ブランクを経て復帰したピアノ弾きが
固定観念を破りながらやりたいことと向き合う過程を共有します

口下手ブロガーの表現論。
発信者としての礼儀と
表現させてもらっているという敬意。

こんにちは、カワグチです(^^)/

先日、いつものようにネットサーフィンをしていると
とあるインフルエンサーさんの発言が取り沙汰されて話題になっていました。

ということで、便乗するのもなんだか品がないようであれですが
今日は、ネットや大勢の人の前で表現する際のマナーについて
わたしなりの考えを共有してみたいと思います。

極度のコミュ障が語る表現論

物議を醸している内容の是非については触れませんが
わたしもここ数年、ブログを通して言葉を発する立場でもあり
自分が発する言葉や表現を不特定多数の方に見ていただいているので
表現には細心の注意を払ってきました。

ちなみに今でこそブログを書く習慣がつきましたが、
国語や活字には触れてこなかった理系で
元はコミュ障なうえ、人一倍空気が読めない世間知らずです…!

求められる通りの
会話ができない、したくない

わたしは軽度の発達障害の気質を持っていると自覚しており
(診断を受けたわけではありませんし
今は環境や生活習慣でセルフケアしており、あまり気にしていませんが)
コミュニケーションにコンプレックスを持っていました。

コミュニケーションの基本である、人と目を合わせることができず
慣れない集団やグループで複数人の顔色を伺う会話は大の苦手で
いわゆる「当たり障りのない雑談」が苦痛でした。

「この場ではこの返しが求められる」みたいな
暗黙の雰囲気みたいなのって、あるじゃないですか。

そういう会話セオリーを読むことができず
突拍子もないことを言って笑われたり、地雷を踏んでしまったり
悪意はないのですが、距離感をはき違えてその場を凍らせてしまうことは数知れず…
(おとなしそうに見られる期待に反して
毒舌キャラというのもあるかもしれませんがw)

というか、「模範解答」はなんとなくわかってきても
なんか、その通りに発言するのって
「わたしは無難な普通の人です(^^)」と言わされた気がしてイヤなんですよね。
かと言って黙ってると、もっと自分を出せとか言われるし。(やだよっ!)

そういうテンプレート的な返しが求められていると感じた場には
努めて迎合しなかったし、積極的に嫌われてきましたw

必死に合わせてやっと好かれるくらいなら、
最初から変人扱いされていたほうがラクだなと\(^o^)/

演奏には本性と性格が出る。ピアノの先生は全てお見通しだった!

人に合わせるのをやめてラクになった話は
このあたりの記事↑にも書いています。

空気の読めない新米医療従事者が
言い回しを試行錯誤した結果

社会人になって、医療従事者になってからは
上司に「カワグチ、その言い方やめろ」と怒られることはもちろんのこと
新人の頃は技術が未熟なことも手伝って、患者さんにブチ切れられて泣く日も数知れず。
(自分の体がかかっていますから、そりゃ本気で怒りますよね)

さすがにつらすぎて身が持たないので、技術向上と並行して
「人の感情を逆なでしない接し方」や「角が立たない言い回し」
「(技術が同じだとしても)少しでも気持ちが紛れる話し方」
を必死で試行錯誤してきたのでした。

言い回しや声のトーンをちょこちょこ変えてみたりしてみて、
ほんとに、言葉たった一つで心象や反応って大きく変わるので
伝え方って深いなぁ…と、つくづく感じます。
(ま、怒る人はこちらがいくら努めても怒りますけどねw)

当時この本↓を読んでいましたが
外国語と同じくらい言葉遣いを真剣に学ぶ必要性は
今でも激しく同意しますっ。

入社1年目の教科書 – 岩瀬 大輔 :著

ちなみに試行錯誤の甲斐あって、今では
イラついて入ってきた気難しい患者さんも、ギャン泣きしている赤ちゃんも
リラックスして気持ちよく寝てくれるようになりましたよ。
催眠術師\(^o^)/

とまぁ、医療に限らずですが
自分と関わって下さった方が、少しでも気分よく帰っていただけるのは
なによりですよね。

言葉は
自分本位の欲求ありき

前置きが長くなって
もはや前置きじゃなくなりましたが(笑)
表現の話に戻ると…

わたしは、言葉って
一種の排泄物だと思っています。

人間、誰でも
「話を聞いてほしい欲求」ってありますよね。

こんな出来事があった!と話したい、
すごいとほめてもらいたい、
こんなに大変なことを共感してほしい、
頑張ってると認めてほしい、
自分の考えに賛同してほしい、
助けてほしい、
笑ってほしい、リアクションしてほしい、
自分という存在を見てほしい…

基本的に、言葉というのは
自分の都合、自分の欲求ありきで出てくるもの。

むき出しのまま言葉や態度に出すと、自分本位にならざるを得ません。

言葉は宝にも凶器にもなる

ただ、それ自体が悪いわけではありません。
ごく自然な人間の欲求ですからね。

言葉が他の排泄物と違うのは
自分の心がけ次第で、きれいにも汚くもできることだと思うのです。

悪意をこめて意図的に傷つけることもできるし
思いやりをこめて相手をいたわることで、宝にもなる。

言葉には人を幸せにする力がある

わたし自身も、人と話すのが苦手で
なるべく人と関わらなくていいようにと、ネット上の拠点を作り
どんな誹謗中傷やダメ出し・批判に遭うかとヒヤヒヤしていたものの
結果、クライアントさんやお会いした方々から
温かい「言葉の宝物」をいただくことのほうが圧倒的に多くて
感激を通り越して恐縮しています。

ピアノ発信を始めて1年。本気でピアノと向き合って変わったのは、人との関わり方でした。

これって、自分がコミュ障というのは置いておいても
別に、過去とか性格とか気質とか関係なく
ただ等身大の自分でいるだけで責められ嘲笑われるような肩身の狭さは
今の社会では、どんな方でも多かれ少なかれ感じているのではないでしょうか。

そんな生きづらい社会だからこそ尚更、
言葉に灯る温かさというのがあるような気がしていて。
言葉ひとつで、こんなに人は幸せを感じられるんだなって。

人を受け入れるにも器が必要

同時に、これって、他人を受け入れる器と
「言葉を磨く」力に長けている方と運良く関わることができたからこそであって
当たり前のことだと思っちゃいけないよな、とつくづく感じます。

なにかを与えてもらった、ということを自覚すれば、自ずと
「なにかをお返ししたいな」という気持ちも芽生えるもので
そこから一人では生み出せない良い循環が生み出せたらいいなと
気持ちも足取りも前を向くことができます。

不適切な発言をする人が
後を絶たない理由

冒頭の不適切な発言に戻ると
このブログも然りですが、
ブログやホームページ、SNSアカウントという
自分の考えを発信できる「自分の場所」を持っているのは
「何を言っても良い」というのとは明確に違います。

アカウントが停止されるなどのルールがあってもなくても関係なく、
それ以前の、人としてのマナーですよね。

「自分の媒体=
何を言っても良い場所」ではない

そんなマナーは小学生でもわかるはずなのに
どうしてその一線を踏み越えて
人を傷付けてしまう発言をしてしまう人が後を絶たないのか。

というその理由は、良くも悪くも
「自分の拠点」に気を許しすぎてしまいすぎた結果、
度を過ぎてしまったのかなって思います。

自分の拠点を持つとつい、気持ちが大きくなってしまうのですよね。
支持してくれるファンが増えれば尚更、全知全能感みたいなものも感じるでしょう。

発言や言動自体の是非や、許されるか吊し上げられるか以前
「この場所でなら何を言っても良い」
「ここの人には何を言っても許される」と履き違えてしまっていることが
本当の問題なんじゃないかなと、わたしは思うのです。

三歩譲って、
「この人はこういう人だ」というオプトインを得た人のみが集まる
クローズドなオンラインサロンや、オフ会などならまぁ…とも思いますが
それであっても、サロンの教祖(参加者さんも然りですが)が好き勝手言葉を排泄するための場ではないわけで。
(もしそうだとしたら、発信者さん側が対価を払うべきでもある)

傷付くのは
本来関係ない優しい人

ブログやSNSに、名指しで悪口や批判を書いたり
アンチに言い返しているインフルエンサーさんをたまに見かけますが
全く関係ない人が見て、良い気はしませんよね。

ごく一部の困ったユーザーさんに苦言を呈したつもりが
肝心の「困った人」には響かず、むしろ、なんの非もない優しい人ほど
「もしかして自分のことかも…」「この人こわい」
と、委縮してしまいやすいものだったりするので、皮肉なものです。

「誰にも注意されない」という
間違った成功体験の積み重ね

大人になれば、よほどのお節介でもない限り
他人の一挙一動に人はいちいち注意をしたりしません。

フォロワーさんに何も言われないだけで、
それが「許されている」こととは違うはずなのに
何も言われない=大丈夫という誤解が積み重なって
読み手への甘えが生じてしまうのが、ネットの怖いところなのかもしれませんね。

きれいな発信はつまらない

とはいえ、きれいな正論や
ポジティブばかりの発信を賛美するわけではありませんし
あまり注意を払いすぎるとそれはそれで
きれいでつまらないだけの正論になってしまうので、
この加減が難しいところなのですよねぇ。

そもそも不適切と
揚げ足を取りたがる人の存在も問題

あとはそもそも内容の是非以前に、
すぐ不適切だとか言って揚げ足を取りたがる人や、
地位のある人を堕として面白がる人、
正義感を振りかざしてジャッジしたがる人が多いのも事実。

取り沙汰されるのはいつも発信者側で
乱雑で好き勝手な匿名のコメントは見過ごされる理不尽さも問題ですよね。

そういう自称風紀委員的な人ほど、
周りと異なる「個」をさらけ出して、発言に責任と覚悟を背負う重みを味わったことがなく
みんなで束になって「責任取れ!」と、匿名で「無責任に」叩いたりしますし。

まぁ、犯人捜しみたいなことをしてもキリがないし無意味なので
このへんにしましょう!

読者さん・リスナーさんが知りたいのは
綺麗ごとではなくぶっちゃけた本音

前言と矛盾するようですが、
「ちょっと過激だけど、読者さんなら受け止めてくれるだろう」という
ある程度は読み手へ委ねるの信頼感が必要なことも、日々感じます。

わたしもちょくちょく、毒舌なことや見苦しい自撮りや
「○○は好きじゃない」みたいな熱血論を書いたりしますから
日々「こんなこと書いて大丈夫かなぁ」「さすがに言いすぎかなぁ…」
という不安は常にあります。

だけど一方で、
そうやって勇気を出してぶっちゃけた内容ほど
深く共感していただけることが多いのも、たしかな手応えとして感じます。

この加減が、難しいのですよねぇ。
ただ、確かに存在する「紙一重の礼儀」をわきまえて
「誰かに読んでもらっている」ことを忘れないようにしなきゃなぁと戒めるばかりですっ。

まとめ:
表現をきれいに磨くことが
見に来てくれた人への敬意と礼儀

今の時代、特にネットでは
個人が無料でアカウントを作ることができ
誰でも自分の主張を発信できるようになりました。

発信者側も恩を受けている

その、溢れかえった情報や言葉の山から
あえて自分の媒体を選んで、手間暇をかけて見に来てくれる。

今や、個を晒して情報を提供している側だけでなく
それを見に来ていただけること自体が、非常に尊いことです。

さらに、本来は自分本位なはずの発言や表現を
曲解せずに理解して受け止めて許容してもらっているとなれば
発信者側も、確実に恩を享受しているのですよね。

「自分本位」の原石は磨ける

思ったままの言葉を
脊髄反射的に発して許されるのは、小学生まで。

「聞いてくれる」「読んでくれる」相手がいることを想像して
言葉をきれいに磨く、というごく当たり前のことは
対面のコミュニケーションもネットも同じですよね。

それが、自分の場所を好いてくれたり、
たまたま気になって来てくれた人に対する配慮であって、
そのお礼として、元気になれるような、学びになるような
なにかを持ち帰ってもらえるような工夫を凝らすのは
発信者としての礼儀なのではないかな、と思うのです(^^)

聴いていただくからには
心地良い音楽を磨きますっ

わたしの場合は、言葉もそうですが
完成度がいまいちな演奏音源を上げてしまっているので
視聴者さんの「苦痛」「騒音」になってしまわないようにしなきゃなのですよね…!

長くなりましたが、結論は
演奏の質を上げられるように頑張りますっ!
(本文書いた意味…)

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